上句中句で我が家には雷が落ちないと、言っています。その後下五句で「母子家庭」とその理由が明かされはっと胸を突かれます。17音字を読み終えた後はひとつのドラマを見たような感があります。こういう切れ味のよさは川柳の独壇場と言えるでしょう。
雷さんは虎の皮のパンツを履いて勇ましいですね。でもその雷様も歳寄って老いれば紙おむつを入れているというのです。笑っちゃいますが句の背後には今の日本の少子高齢化の問題が見え隠れしています。
親父の威厳が無くなったと言われてから久しいですが、親父の威厳を維持するいい方法は無く、どんどん失われて行く一方のようです。そんな中雷を落として父の椅子を守ろうというのですが、現実と比べるとやはり無理がありそうです。
親父の立場や上司の立場を利用して雷を落とすのはたやすいですが昨今ともするとパワハラだセクハラだといろいろ難しい問題がありますね。落とし方や落としどころ、落とした後のフォローも大事です。難しい時代になりました。
ゴロゴロという雷の音の合間に澄んだ風鈴の音が聞こえます。そして手にしているのは缶ビールとくれば、もうたまりませんね。夏の風物を五七五に綺麗に並べた耳に心地よいお手本のような川柳です。
愛のある雷。いつまでも落ちて欲しいものですが・・・
雷鳴を聞かせたときどんな反応をする「男」が理想なのでしょう?
「だんごむし」は精一杯怖がる自分の心の象徴ですね。
自分が懐かしいものを今の子供たちはもはや知らないのだという寂しさですね。
ところかまわず落ちるのが雷ですが、愛のある雷は落としどころで輝くように落ちるものなのです。
新幹線で夕方に赤富士を見ることが出来ればラッキーだと言われますが、雷様を下に聞く富士登山ならばもっとラッキーかも
「雷が嫌いな女(ひと)」。今時理想の女性かも知れません。
さて酒のあと、どんな雷がおとされるのでしょうか。
出目金の目がへこむほどの大雷鳴、昔々聞いたことがあるような・・・。
井戸端会議という言葉と、こういう風景がレトロです。
言い訳は上手にしないとこういう羽目になります。
あどけない子の寝顔が夫婦喧嘩の末落ちた雷の避雷針になりました。ほほえましい。
下五の「足8本」が面白い、4人とは限りませんよね。想像をかきたてられます。
これも「まだ生きるつもり」に笑ってしまいます。
オバタリアンはやっぱり最強です。
付和雷同とか忖度とか、騒がしいだけであまり役に立ちません。
どちらも臍を出してるのに雷公がギャルに臍を曲げるって、パワハラと言えるかも。
これってそのまま今話題の事件のことですね。
お芝居の一コマのような句ですね。お江戸の町の一風景のようです。
臍のない蛙はお母さんではなく卵から生まれ一人で育つのです。
どなられて背筋がびしっと立つ、そんなふうにもう一度叱られてみたいものだと思いました。
上句の「年拾い」が暗示的、その結果歯が立たなくなった「雷おこし」が哀しい。
寒ブリは初冬の雷とと共にとれ始めます。「起こす」は網を起こす、鰤を起こすの両方の意味があるようです。
「かみなり」ではなく「いかずち」音が欠けても「ひかり」が欠けても「いかずち」ではなくなるのです。
梅雨明けを告げる「雷鳴」とそれまで出来なかった「家事数多」との対比が鮮やかです。